「歩いたことのない場所」
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数ヶ月、もしくは数年数十年と、見慣れた町の道でも、一度も通ったことのない道を選べばそこは未知だ。たとえそこにお洒落な専門店がなくても、キャラクターの面白看板に出会わなかったとしてもいい。落ちているはずのないものがゴミとなって転がっていたり、他人の家の窓辺がデコレートしていなかったとしても構わない。それは写真にして残すまでもない退屈な場所と時間。でも、そのなんでもなさが必要な時だってある。そこを選んで歩いたことが、自分だけの経験値となって感性を豊かにしてくれる。そう信じている。
もはや隠れ家はなく、秘密は公然の世界で、それでも自分だけの居場所は欲しい。だから抵抗してみる。検索画面の「(スペース)おすすめ」や、マップでの最適解に頼ることなく未知を進む。馬鹿馬鹿しくも、ささやかに。
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「歩道橋の上から」
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自分の足元を何台もの自動車が通り過ぎていく。ぶおーん!ぐるるるる。
大きな音と共に、大きな物体が動いている。小さな点だったものが徐々に近づいてきて、その輪郭を顕にしたと思いきや、瞬間、向こうのほうへ遠ざかっていく景色。歩行者も、自転車も、私という観察者には気がつかないままどこかに行って帰っていく。
歩道橋は、交通量の多い都市部の交差点や、複合商業施設をつなぐ動線としての役割以外では、もはや使用されないまま通り過ぎる存在になっている。60〜70年代にかけて交通事故防止のため盛んに設置されたが、今や高齢化社会へのバリアとなり、景観を阻害するものとなり、劣化による安全性も問題視されている。
「道」という、ある意味では人間社会のど真ん中にいながらも、時に邪魔扱いされる厄介者の身体の上で息を吸って吐く。少しだけ足を止めて風を感じてみる。常時たくさんの人が行き交う中でそこは、誰からも干渉されることのない避難所になる。
時代に取り残された場所から時代を眺める。その哀愁、趣に私は心癒される。
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「実家の時間」
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実家を離れたのは25歳の頃。視界に映る大半を占めていたのは山と川で、それがいつしか窮屈でたまらなくなり東京に越してきた。ベタなパターン。なのに今では人の多さに辟易し、建っては壊され、また新しく建つたびにダサくなるこの街の片隅で言い訳しながら暮らしている。これもまたベタ。そんな折、帰省した際に生じるのはまたもやベタな家族との会話。それと見飽きたはずの景色。代替できないデータを身体に宿している。頭でいちいち考えなくても成立する人間関係や、どこをどう歩いても迷わない無敵の地図が、いいじゃん最高じゃんって気がつくまでにこんなにも遠回りをした。
「ここも変わんねえな」なんて、何も勝ち得ていないのに凱旋気分を与えてくれるところは懐が深くて好きだし、前向きな姿勢だけに拍手を送られる、そんな場面ばかりで疲れてしまった心の拠り所として、懐かしさに浸っていいんだよと言われているようで安心もする。
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近藤大輔
1990/静岡県生まれ。ドローイングやスタイロフォーム彫刻を制作。8匹のぬいぐるみたちと生活をしています。
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